
※登場人物は全て仮名です。
34歳の私、田中サキは今日も仕事帰りの電車でスマホをスクロールしていた。タイムラインに流れてきたのは、友人のミホが投稿した動画。
「これマジで最高!子どもが倒しても割れないから安心」
画面には大きな全身鏡が映っている。ミホの3歳の息子がその鏡に全力でタックルしても、鏡はただ倒れるだけ。破片なんて一つも出ない。
へえ、そんなのあるんだ。
私は何気なく保存ボタンを押した。
次の日の朝、事件は起きた。
出勤前に全身をチェックしようと姿見の前に立った瞬間、飼い猫のモモが全速力で走ってきて鏡に激突。
鏡は派手な音を立てて倒れ、床に無数の破片が散らばった。
モモは無傷で逃走。私は遅刻確定。
掃除機をかけ、雑巾で拭き、それでも不安で靴下を二重に履いて家を出た。
会社に着いて靴を脱いだら、靴下に小さなガラス片が3つ刺さっていた。あと一歩で足の裏だった。
その瞬間、昨日見たミホの投稿が脳裏にフラッシュバックした。
昼休み、私は猛烈な勢いで「割れない鏡」を検索した。出てくる出てくる、山ほどのレビューと商品ページ。
軽い、安全、賃貸OK、移動が楽、ダンスやヨガに最適。値段もガラス鏡とそんなに変わらない。というか、安いものもある。
なぜ今まで知らなかったのか。なぜガラスの鏡を使い続けていたのか。
私はその日のうちに、幅60センチ高さ170センチのシンプルなタイプをポチった。
翌日配送、送料無料。文明の利器、ありがとう。
届いた箱を開けた瞬間、私は声を上げた。
「軽っ!」
片手で持てる。ガラスの姿見なんて両手でヨロヨロ運んでいたのに、これは女性一人で楽々持ち上がる。
フレームに立てかけて、全身を映してみる。鮮明。普通に鏡。何の違和感もない。
試しにモモを呼んで、鏡の前に立たせてみた。モモは興味なさげに顔を洗い始めた。
私は鏡を軽く押してみる。倒れる。でも割れない。当たり前だけど、割れない。
この安心感、プライスレス。
感動のあまり、私もミホと同じように動画を撮った。
「割れない鏡、マジで最高です!猫いる人は絶対これにした方がいい!」
軽くモモを鏡にぶつけるシーンも収録。モモは迷惑そうだったけど、演出のためだ。
投稿して30分後、通知が止まらなくなった。
「えっそんなのあるんですか!」
「うちも猫2匹いるので助かります!」
「リンク教えてください!」
いいねは500を超え、シェアされまくり、私の投稿は一気に拡散された。普段30いいねくらいしかもらえない私が、である。
気づけば私の部屋には、割れない鏡が3枚になっていた。玄関用、リビング用、寝室用。
全部サイズとデザインが違う。コレクションみたいになってきた。そして私は毎週のようにSNSに投稿し始めた。
「今日は新しいフレームの鏡が届きました!木目調でおしゃれ!」
「割れない鏡でヨガやってみた!移動が楽すぎて感動!」
「猫と鏡、最高の組み合わせ!」
フォロワーは3000人を超えた。企業からPR案件の依頼も来た。
私、割れない鏡インフルエンサーになっていた。
ある日、実家の母から電話がかかってきた。
「サキ、あんたSNSで鏡ばっかり載せてるけど、大丈夫?」
「大丈夫だよ、むしろ仕事の依頼とか来てるし」
「いや、そうじゃなくて」
母は少し言いにくそうに続けた。
「近所の人が心配してたのよ。サキちゃん、鏡ばっかり買ってナルシストになったんじゃないかって」
ナルシスト。
その言葉が胸に刺さった。
確かに最近、鏡を見る時間が異常に増えていた気がする。でもそれは割れない鏡の安全性を確認するためで、別に自分に見惚れてるわけじゃない。
たぶん。
電話を切って、改めて部屋を見た。鏡が5枚に増えていた。いつの間に。
どこを向いても自分が映る。360度、私。
モモは鏡に映る自分に威嚇している。お前もか。
そしてSNSを開けば、私のタイムラインは鏡の話題で埋め尽くされている。フォロワーとのやり取りも、全部鏡の話。
私、いつから鏡の人になったんだっけ。
翌週末、私は鏡を3枚手放すことに決めた。
本当に必要なのは2枚でいい。玄関とリビングだけ。
寝室の鏡を片付けようとした時、久しぶりに訪ねてきた友人のアヤが玄関から叫んだ。
「サキ!すごい!部屋が鏡だらけ!インスタで見たけど本物見るとヤバイ!」
アヤは興奮気味にスマホを取り出し、自撮りを始めた。
「ねえねえ、この鏡どこで買ったの?私も欲しい!」
「えっと、これは楽天で」
「マジで?今すぐポチる!」
アヤは即座にスマホで検索し始めた。私はその光景を見ながら、ふと笑ってしまった。
アヤが帰った後、私は再び鏡を見た。確かにこれは、ただの鏡だ。
でもガラスじゃなくて割れなくて、軽くて、安全で、移動も楽で、猫がぶつかっても平気で。
そういう小さな安心が、毎日をちょっとだけ快適にしてくれる。それって別に悪いことじゃないよな。
SNSで流行ってるのも、みんなそういう小さな幸せを共有したいからだ。
私はスマホを開いて、新しい投稿を書いた。
「割れない鏡に囲まれた生活、最高です。でも5枚は多すぎたので3枚に減らします。ナルシストって言われたので」
投稿から10秒後、コメントが届いた。
「5枚は確かに多いwww」
「でも気持ちわかる、私も3枚持ってる」
「ナルシストじゃなくて、安全第一なだけだよ!」
私は笑いながら、残す2枚の鏡を選び始めた。
結局、割れない鏡は私の生活に定着した。
SNSの投稿頻度は減らしたけど、月に1回くらいは鏡ネタを載せている。フォロワーも安定して4000人くらい。
モモは相変わらず鏡に無関心。
そして私の部屋には、今日も2枚の割れない鏡が静かに佇んでいる。
安全で、軽くて、何より安心できる相棒として。